いま、話題の一件
- solfamusica
- 2014年2月7日
- 読了時間: 4分
いま音楽界最大の話題と言えばやはり佐村河内さんのこと。思ったことを記します。
まず、彼のしたことを肯定するつもりはありません。
僕自身、彼の曲をちゃんと聴いたことはありません。
一度NHKスペシャルかなにかを見ただけでした。
今回の一件の最初の感想は
1、これって、あまちゃんのストーリーと同じじゃないか
2、佐村河内さん、なかなかの役者だな」でした。
次に思ったことは、
3、本当に良い曲なら誰が作ったものだっていいんじゃない?
そして、考えれば考えるほど今のクラシック音楽界の抱える問題点があぶり出される一件だと思うのです。
まず、3ですが、高橋大輔選手が曲を変えない、ということを決めたことに安心しました。
今回の一件で憤っている人たちは佐村河内さんの音楽ではなく、その「ストーリー」を買っていた、ということではないでしょうか? だますことは悪いことです。でも、重要なのは新垣さんの作品だろうと誰の作品だろうと、聴く人の心に響いたかどうか、ではないかと思います。
もし、今後本当は新垣さんの作った曲が「なかったもの」のように扱われるのだとしたら、音楽よりも「ストーリー」が重要であった、ということになっていましまい、音楽をやっている者としては複雑な心境です。
そして、クラシック音楽はそういった「障害」という「ストーリー」がなければ売れない、といういまの日本のお寒い状況を痛感します。
数十年後に「この作品は当初佐村河内守という難聴の作曲家というふれこみで話題になっていた偽作曲家の作品ということで有名になったが、実は嘘であることが判明。しかし、その後、名曲として世界中の音楽家のレパートリーの一つとなった」となるようでいてほしい。(作品を聴いていないので、作品がよいか悪いかということについてはここでは触れられませんが、あれだけ売れたのだからなんらかの魅力はあるんでしょう)
ちなみに、音楽家的な考えはいろいろな方のブログやFACEBOOKなどにありますが僕としては吉松隆さんのブログにとても共感できました。
2ですが、不謹慎かもしれませんが、別の視点です。音楽には関係なく、佐村河内さん個人のこと。僕がみたNHKの番組ではのたうち回るような苦しみの中から音楽が湧き出てくる的なシーンがありました。あれ、演技だったとしたら相当に迫真の演技です。
18年もの間、耳が聞こえない作曲家を公私ともに演じる、という労力をしてまで彼はなにがしたかったか。そして本当に死ぬまでそれをする覚悟があって、そこまでしても有名になりたかった。
これはこれですごいエネルギーだと思います。(よいことだとは思いません)
微妙にあの南アフリカの手話通訳の方に通じるものを感じてしまいました。
どんな気持ちで演技していたんだろう。
同じ音楽でも聴覚障害があると「売れて」しまう。あくまで想像ですが、軽薄なメディアや世間を心の中であざ笑っていたのではないか。そんな気がしてなりません。
彼がいまどのような心情かは分かりませんがずっと後になって、この一件を映画にしたらさぞ面白いだろうなあ、なんて。本物の「ワル」ですよね。
1、のあまちゃんと同じっていうのはもちろん、春子と鈴鹿ひろ美のことです。もしあまちゃんのなかでその一件がばれていたらこういう展開になるんだな。ということ。ドラマで太巻さんが必死に隠そうとするのも無理はありませんね。あくまであれはドラマでしたけど。
もちろん、裏切られたと思う方も多いだろうし、そういう方のことを考えるとこういうことをしてはならない、と思うけど、この一件には社会やクラシック音楽界の陰の一面を見せられているように思います。
新垣さんが「自分の曲が社会に受け入れられているのを嬉しく感じた」というのも「やりたい音楽をやると世の中からは相手にされない。でもそれがカッコいい」クラシック界の「大衆に受けることをするヤツはダメな音楽家だ」という風潮の裏返しかもしれません。
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